『3000万語の格差』:最近の研究

「年に一度の運動会」は子どもの感情発達に合っている?


 新型コロナウイルス感染症(以下、「新型コロナ」と略)ゆえに、未就学児施設の行事は中止や縮小、分散が続きました。その様子を見ていて、そして、相談をたくさんいただいていて、ふと思い出したのです。数年前、子どもの発達を論じた英語の記事に「子どもの感情の揺れ動きや、感情によるエネルギー消費はおとなよりもずっと大きい。おとなの生活の中で子どもぐらいに気持ちの揺れ動きを感じていたら、一日が終わらないうちに疲れ果ててしまうだろう」と書いてあったことを。その時、「子どもにとって、年に一度の運動会は大きすぎるのかな?」と思ったのでした。

 以前の記事はネット上で見つけられなかったのですが、代わりに、10月15日、ニューヨーク・タイムズに載った「子どものかんしゃく(癇癪)の科学」を見つけました(リンクは一番下)。これを読んで、「やっぱり、これは書いておこう」と思いました。新型コロナはせっかくの機会ですから。

 もうひとつ、こちらは知っていたことですけれども、子どもの時間の認知はおとなと違う。子どもは、毎日、毎秒、ぎっしり詰まった時間を過ごしている(これも感情の揺れ動きとつながっているのですが)。

 子どもの感情の体験からしたら、「年に一度の運動会」や「年に一度の生活発表会」はおとなの「10年に一度の大イベント!」みたいなことになってしまっているのかもしれない。または逆に、「(おとなの想像を超えた)毎日の感情大イベントの中で、なぜか何度も同じことを練習しなければいけないつまらないできごと」かもしれない。

 いずれにしても、子どもの時間認知、感情の揺れ動きには合っていないように思える「年に一度」や「半年に一度」。保護者や保育者(=おとな)の感覚と都合をやめて、子どもに合わせるにはちょうどよい機会なのかもしれないと思った次第です。
(特に参照した資料のリンクは最後にまとめて置いてあります。)


「2020年、もう終わるの!?」:おとなの主観的時間認知

 2020年の年末、今年1年間を思い出して、あなたはどんなふうに感じるでしょう? 「なんか、一瞬で終わってしまった気がする」「子どもが少なかった頃や、『登園自粛』とかって言ってた頃のことはなんとなく覚えているけど、その後はすごく速かった」…、おそらくこんな感じでしょう。特に、あなたが10年、20年、あるいはもっと長く未就学児施設で働いているなら。

「年齢が上がるに従って、1年が短くなる」、よく言われることですが、実際、すでに過ぎ去った時間を振り返った時の「長い」「短い」という主観的認知は年齢とともに変化するようです(時間自体の進み方はもちろん一定です)。なぜ? 文献を調べてみると、この分野は認知心理学や脳科学で実験的にもずいぶん研究されており、かいつまんで言えば、この3点のようです。

1) 年齢が上がるほど、日々の生活には変化が少なくなっていく傾向があるから。
2) 年齢が上がるほど、いろいろなことに慣れていく傾向があるから。
…なので、記憶に残る部分が減り、全体が短く感じられる。
3) 年齢が上がるほど、人生全体に対する「1年」の割合は小さくなる(=重みが減る)から。

 振り返った時間認知だけでなく、生きている最中の時間認知も、おとなより子どものほうが遅いそうです。子どもは脳神経が発達途上にあり、神経系の連絡を速くするミエリン(髄鞘)も発達中。そのため、ワーキング・メモリー、注意、脳の高度な実行機能の働く速度がおとなよりも遅く、感じる時間の速度がおとなよりも遅い(実験では、8~10歳ぐらいになるとおとな同様の認知速度になるそう)。逆に、年齢が上がるほど脳神経のつながりが複雑になり、でも処理能力は落ち、結果、情報を処理するのに時間がかかるようになる。そうすると、記憶に残る情報も減り、振り返った時の時間認知が「速く過ぎた」になるのではないかとも言われています。

 日々の生活に変化が減り、記憶に強く残るできごとが減っていくと、過ぎていった時間は(記憶に残っていないから)短く感じる。さまざまなことに慣れて、新しい経験が減ると、記憶に残る部分が減り、過ぎた時間は短く感じる。そういうことのようです。逆に言うと、年齢が上がっても新しい勉強をしたり、変化のある時間を過ごしたりすると、その時間枠は振り返った時に「長く」感じる。

 え、でも、旅行で知らない場所へ行ったりして楽しく過ごしていると、数日間が一瞬に終わってしまって、「もう帰る日?」と感じてしまう…? 矛盾するようですが、矛盾していません。これは「ホリディ・パラドックス(休日の矛盾)」と呼ばれる現象。新しい場所で楽しく過ごしている「あいだ(最中)」はとても短く感じられて、でも、後から振り返るといろいろ思い出し、いつもの数日よりもずっと長い時間だったように感じられる(いろいろな記憶が詰まっているから)。

 新しい、楽しい経験をしている「あいだ」は短く感じ、いつもの経験をしている「あいだ」は(それがつまらないことならいっそう)長く感じる。でも、過ぎていった時間を振り返ると、新しい、楽しい経験をしていた時間のことは「長く、記憶がいっぱい詰まっているように感じ」、いつもの生活をしていた時間のことは「さっと過ぎてしまったように感じる」。新しさや楽しさ、記憶、慣れといったものがその場の主観的認知、さらにその時間が過ぎた後の主観的認知に大きく影響するのです。

 だから、2020年を思い出すと、いつもと大きく異なっていた時期のことはいろいろと思い出す内容があり(=振り返って長く感じる)、いつもと違いながらもそれに慣れてしまった後は思い出す内容がさほどない(=振り返って短く感じる)。まして、未就学児施設で働いている方たちは今年、旅行にも遊びにもほとんど行っていないでしょうから、「新しい」も「楽しい」も少なく、いろいろあったけど一瞬で過ぎた1年という感覚が残るのではないかと予想されるわけです。


子どもの頃の記憶は強く残っている

 では、子どもは? 子どもの頃のできごと、遊びに行った場所などは今でも鮮明に思い出すという人が多いはずです(私はほとんど覚えていませんが、それは私の脳の病気が原因。子どもの頃のことを覚えていない人がいても不思議はありません)。

 なぜか。もうおわかりの通りです。日々(どころか毎時…、どころか一瞬一瞬)、新しいこと、日々大きな変化、日々、楽しいことも悲しいこともいやなこともいっぱい…、とにかく新しいことだらけ。記憶は強烈。だから、子どもの頃のことは覚えている。未就学児に「振り返った主観的時間認知」を尋ねることはできませんが、ドイツの研究で14~94歳の計499人に聞いたところ、10年単位の「過去の時間」は年齢が上がるほど速く過ぎていると感じられ、特に、40代以降になると、「子どもの頃は時間がゆっくり過ぎたけれど、10代以降はどんどん速くなった」と感じられていたそうです。


子どもの感情反応はおとなより強く、一面的

 「毎日が新しい」と言ったって、おとなが初めての場所へ旅行に行き、「楽しい」「おもしろい」と過ごすのに比べれば、子どもが毎日、同じ園に来て同じ顔触れと過ごすなんて、たいして代わり映えしないことなんじゃない? だから、毎日、新しいお話を聞かせたり、新しい製作をしたり、行事を準備したりして「盛り上げ」ないと…?? 子どもたちを「楽しませ」ないと…??(※)

 いいえ。それは、慣れた作業をしながら、さほど変わらない毎日を過ごしているおとなの思い込み。子どもは「感情の強さ emotional intensity」がおとなよりもずっと強いと、はっきりわかっているようです。

1) 乳幼児の生活は新しいことだらけ。乳幼児の脳は新しいことに興味を持つようにできている。新しいことやものを探して、新しいことをしようとする。結果、新しい/初めて=強い感情の反応。

2) 乳幼児はもちろん、十代になっても自分の感情の制御はうまくいかない。「感情というのは自分でコントロールできるものだ」という理解が生まれるのすら、5~11歳の間だそう。未就学児には自分の感情の起伏自体、「なんだかわからないもの」と感じられる。だから、かんしゃくを起こしている子どもに「どうしたの?」と聞いても答えられない(※※)。ひとつの理由は、今ある感情を自分自身で把握し、さらにそれを表現する言葉をまだ持っていないため(言葉のスキルが低いと感情制御が難しいという因果関係はすでに示されている。本サイトのこのページ)。 自分の感情を把握して表現する言葉があっても、感情や行動のもっとも高度な制御を司る脳の前頭前皮質(前頭前野)が成熟するのは、25歳ごろ(打ち間違いではありません。本当に20代半ばです。リスクの高い行動をする時期を考える上で、安全の世界でもこれは重要な話なので)。

3) 十代(思春期)になると複雑な感情を感じ始めるけれども、それまでの子どもにとって感情はほぼ一面的。楽しいは「楽しい」、悲しいは「悲しい」、いやは「いや」、悔しいは「悔しい」。つまり、おとなのように「負けて悔しかったけど、楽しかったね」にならない。感情が単純で、強い。

4) 子どもには、今、目の前で起きている状況を多様な側面から解釈するために必要な経験が少ないため、起きていることを「見た目そのまま」受け取り、たとえば、白か黒か、良いか悪いか、勝ちか負けか、好きか嫌いかといった極端な判断をする。極端な判断に対して、3)のような一面的な感情的反応をする。一方、おとなのように「これは自分には関係ないことだ(から感情で反応する必要がない)」という判断をくだすことはできないため、起きたできごと一つひとつが自分にとって重要なことであるように反応する。


感情の体験に多様性と継続性をもたせたいなら

 運動会の競技に負けて泣いている子どもを見て、物事を多面的に見ることのできるおとなは「負けたけど、頑張ったんだから!」と励まします。発表会でセリフを間違えてしょんぼりしている子どもには「大丈夫だよ!」と言うでしょう。でも、上のような知識があれば、子どもの悔しさやがっかりは、「頑張ったんだから」「負けることもあるよ」「失敗することもある」ではなく、ただ、「悔しい」「がっかり」。それもおとなの感情とは比べ物にならない悔しさやがっかり。

 負けたことも悔しかったことがっかりしたことも、「毎日が大イベント!」の子どもたちは忘れていくのかもしれません。でも、忘れてしまったのでは、「似たようなできごとでも、いろいろな結果があるんだ」「いろいろな気持ちになるものなんだ」という大切な体験はできません(=経験に継続性/積み重ねがない)。そのうえ、保護者の中には「うちの子が(年に一度の運動会の)かけっこで最後になるなんて」「(年に一度の発表会で)ダンスを失敗するなんて」と、育ちとは無関係どころか、育ちにとって害にしかならない保護者都合の感情を持つ人もいるでしょう。

 子どもたちの感情体験に多様さや変化をもたせたい、感情の多面性理解を育てていきたい(=切り替えをしやすい)と考えるなら、年一度の運動会ではなく、たとえば「ミニ運動遊び会」を毎月開いて、「今月は負けた」「来月は勝つぞ」「負けることもあるし、勝つこともあるんだ」という実感をつくっていくことが大切なのではないでしょうか。発表会も毎月の「ミニ発表会」。おとなにとっては、ミニでは盛り上がりに欠ける、「年に一度だから、すごく盛り上がる」なのかもしれません。でも、子どもにとってはたとえば「月に一度のちょっとした行事」が感情としては十二分に大きく、消化もしやすく、「前(1か月前)はこうだったから、今度はこうしよう」も考えやすいはずです。

 職員が忙しくなる? いいえ。「ミニ」です。「見せるため(成果)」ではなく、子どものための日々の一部。このくらいの間隔で開いていれば、日々、大忙しの子どもの脳も記憶しているでしょうから、自分たちで競技や出し物をつくり、改良し、勝ち負けの基準もおとなとは違う線引きをつくるかもしれません(子どもはルールをつくるのが大好き)。その過程自体が子どもの日常の一部になります。子どもの間にはしょっちゅう「流行」が起きますから、「今月はこれをみんなの前で発表しよう」にすればいいわけです。日々の活動が子どもにとっても「継続性のあるもの」になります。突然、先生から言われてする行事や製作ではなく(たとえば、「今日は~を作ろう!」という製作のしかた。先生の頭の中ではカリキュラム等の一連の流れに沿っているのかもしれませんが、子どもにとっては? 「秋だから、これとこれ」…、いや、それって、先生の頭の中にあるおとなの感覚ですよね。子どもが自分たちで選び、つくっていく日常を意識的に観察していなければ、子どもたちの経験の継続性は、そもそも先生たちにはわからず、結局、おとなが引き回すことになります)。

 もちろん、「ミニ」を積み重ねていって、年に一度だけ、大きめにしてもいいのかもしれませんが、そうなればわざわざ何度も何度も練習する必要などないでしょう。

 なにより、「年に一度」ではありませんから、先生たちのプレッシャーやいらだち、疲弊も減ります(「達成感がなくなる」? それは誰の達成感ですか?)。保護者の異様なのめり込みも小さくすることができます。保護者は来れる時に見に来ればいいのです(毎月、配信するという方法もあります)。保護者に見せるためではなく、おとなが「盛り上がる」ためでもおとなの「達成感」のためでもなく、子どもの感情発達に合わせた行事(でも、子どもの感情にとってはとても大きいできごと)。

 新型コロナウイルス感染症は、ただでさえ未就学児施設、特に保育施設が「保護者の就労を保障し、経済を維持するための基幹インフラ」であることを露呈させました。子どもの保育・教育の質どころか、子どもの安全さえ、数か月間にわたってはっきり軽視されたのです(他国のデータから「未就学児の年齢は重篤化しにくい」とわかったのは、ようやく7月)。一方で、「保育士が感染」はニュースに書きたてられ、まるで保育士が子どもに感染させているかのような言説が広がり、現場は予防に時間とエネルギーを割かざるを得ない。

 それで結局、犠牲になるのは? 職員の心と、子どもの育ちです。「保育・教育の価値」「子どもの育ち」と言うなら、子どもの成長発達の科学に基づいた保育・教育をこそ進めていくべきでしょう。今のおとなのための保育・教育ではなく、将来のおとなのための保育・教育。そして、今回とりあげた点については、科学がはっきりしているので。

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※園だより、クラスだより、玄関先に貼ってある写真…、園のあちこちに「楽しんでいます」「楽しみました」「楽しめるようにします」といった言葉が散りばめられています(子どもの日常の感情について私がまず興味を持ったのは、たぶんこの「楽しむ」の氾濫からです)。元・編集者としておたより等の添削をしていて、「~して楽しみました」「楽しめるようにしていきます」の「楽しむ」を削除し続け、「園はディズニーランドじゃありません。子どもは身のまわり、世界と一瞬一瞬にかかわり、すべてを吸収しているのですから、それをいちいち「楽しむ」と解釈するのは不必要だし、おかしいですよね」と言い続けてきました。「~しました」と具体的に表現すればよいだけで、「楽しむ」はおとなの単純な解釈にすぎません(実際、たとえば1歳児はまだ、「楽しい」という言葉を知らないので、「楽しい」という感情を持っていません)。

 まあ、逆に子どもの姿を表現するおとなの言葉がどんなに豊かでも、それがおとなの勝手な解釈、おとなが「こうだ」と思いたい子どもの姿、あるいは、おとなの間で「子どもの姿をじょうずに表現する競争」をしているのなら、まだ単純に「楽しむ」のほうがマシだと私は思いますが。そしてなにより、未就学児施設が「子どもの姿」をせっせと表現しなければいけないのは、子どもと保護者とで過ごす本来の時間が減っているからであって、それ自体、本末転倒。

※※今回読んだ記事の中に、子どものかんしゃくを取り上げたものがありました。未就学児は、自分がなぜかんしゃくを起こしているのかもわからない。その記事の中で発達の専門家が説明しているのは、こういうことです。

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 動物と共有している古い脳の一部、扁桃体は「煙探知器」のようなもので、なにかのきっかけで怒りや恐怖といった、命を守るためにもっとも重要な感情を引き起こす。同じ古い脳の一部、視床下部は煙探知器が鳴った時に「ガソリンを注ぐか、水を注ぐか」を判断する。災害や危機の時は、火に油を注いですぐに行動をしたほうがいい。でも、自分の前に割り込んできた車にムカついたら、それは火に油を注がず、怒りに水をかけて冷やしたほうがいい。それが、扁桃体と視床下部の働き。

 おとなは経験や知識があり、(20代半ば以降は)前頭前皮質も成熟している。だから、脳の中で煙探知器が鳴っても「今は怒りや恐怖を感じる必要がない」と判断でき、怒りや恐怖を感じても「冷静になって考えよう」と自分に言い聞かせることができる。だが、子どもは自分が感じている怒りや恐怖そのものを把握できず、原因もわからず、ガソリンか水かの判断もできない。

 おとなが「どうしたの?」と聞いても子どもが答えない、「大丈夫だよ、~だから」と説明して落ちつけようとしても鎮まらないのは、子どもには何が「煙探知器」を発動させたのかもわからず、ただ、心の中で鳴り響いているアラームの音に翻弄されているから。
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 保育施設でも、落ち込んだままになってしまう子ども、かんしゃくが止まらない子どもが増えてきたと聞きます。そうした子どもの様子を見ることもあります。「言葉にならないから」というのはひとつの理由で、まずは保護者が、次いで保育者を含む周囲のおとなが言葉にすることを手伝っていくことが大切(それが私にとっては『3000万語の格差』なのですが)。

 でもそれ以前に、子どもは自分自身の中で起きている「爆発」や「ザワザワ」とたった一人で闘わなくていいんだという安心感を持つ必要があると、今回、読んだニューヨーク・タイムズの記事には書いてありました。子どもが心(脳)の中の爆発やザワザワに襲われている間、ただそっと横にいてくれる身近なおとなの存在(≒保護者)。そして、爆発やザワザワが去ったら「それはなんだったんだろうね」とゆっくり、穏やかに言葉を探し、表現し、自分で理解することを助けてくれる身近なおとなの存在(≒保護者)。

 保護者も保育者も忙しすぎて、おとなの都合ばかり優先させているこの文化、子育てや保育に平気で「効率」を求めるこの文化では、こうしたことはもう無理なのかもしれません。でも、結局、そこで被害を受けるのはやっぱり子どもであり、将来のおとなです。そう考えると、年に一度のイベントにおとなが振り回されるよりも、子どもが毎日の一つひとつの山場をひとつずつ消化していく時間のほうが大事だと思います。上に書いた通り、おとなから見たら「そんなことで!」というできごとが、子どもにとってはどれも一大事なのですから。


●参照文献
(子どものかんしゃくについて)
The Science Behind Your Child’s Tantrums: And how to nip them in the bud before they start.
Ashley Abramson, 2020/10/15
(おとなと子どもの時間感覚の違い)
Why Does Time Seem to Speed Up with Age?, 2016/7/1
(ホリディ・パラドックス)
Why our sense of time speeds up as we age — and how to slow it down, 2018/11/27
(年齢が上がると処理能力が下がり、記憶が減るために、時間が速く進むように感じられる)
No, It’s Not Just You: Why time “speeds up” as we get older, 2019/3/27
(子どもの感情の強さ。複数の専門家による解説)
Do Kids Feel Stronger Emotions Than Adults?
Daniel Kolitz, 2018/9/10/

(掛札逸美。2020年10月25日)