「欠如モデル」から「強み/特性モデル」へ
「この子は虐待されていたから」「この子は行動課題/特性/発達障害があるから」「この子の親は~だから」…。あるいは、「この子は成績が悪いから」「この子の家はお金がないから」…。安全の領域で言えば、「転んだ時に、この子が手をつけなかったから(顔を打った)」「今の子は、転んでも手をつけないから」「この子がいたずらをしたから(事故になった)」…。もっと一般的に未就学児施設で見られるのは、「この子は〇〇ができない。だから、〇〇をもっと練習させよう」「この子は△△が嫌いだから、△△を好きになるようにしなければ」などなど。こうした言い方は、「欠如モデル deficit model」や「『欠けている』という思考の枠組み deficit mindset」と呼ばれるものから生まれます。その子やその子の保護者に何かが欠けている(だから、〇〇が問題だ)、または、問題の原因になるであろう何かが子どもや保護者にある(だから、きっと〇〇が起こるだろう)とみなす考え方です。
この考え方自体に以下のような問題点があることは、長年、指摘されてきました。そして、「欠如=できない」をもとにした考え方ではなく、子どもがそれぞれに持つ強み、長所を育てていく枠組み(強みモデル strength model、長所モデル asset model)を用いるべきだという流れに変化してきました。
1)問題:その子ども、保護者の責任にし、社会的要因を見逃す
2)問題:その文化が「ダメ」「欠如」とみなす部分にのみ焦点が当たる
3)問題:他の子どもは「課題がない」とみなされる
4)代替:強みモデル、長所モデル
1)問題:その子ども、保護者の責任にし、社会的要因を見逃す
→「生物-心理-社会(文化)モデル」の大切さ
1977年、精神科医で内科医のジョージ・エンゲル(George Engel)が、「医療には、生物-心理-社会モデル biopsychosocial model が必要だ」と提唱しました。デカルトの「心身二元論 body-mind dualism」以来、心(キリスト教で言う魂、soul)を切り離した体を対象にすることで進歩してきた西洋医学が、生物学や医学(=体)だけでは疾患の治療を十分にできないという現実に直面した結果です。たとえば慢性の痛みでも、その人の感情や精神状態、あるいは周囲の人間関係や文化が大きく影響します。個人に起こっているように見えることでも、その背景にある社会、経済、文化の影響は見逃すことができません。
人間の生涯発達学においても「生物-心理-社会(文化)モデル」が主流です。子どももおとなも真空の中で育ち、生きていくわけではありません。その子ども、そのおとなが何かの「課題」を抱えている場合、原因の一部は社会、経済、文化です。そして、その課題を解決あるいは緩和し得る方法も社会、経済、文化の中に必ずあります。
一番わかりやすいのは、いわゆる「障害」という概念でしょう。「障害」は、それぞれの文化(社会)が規定する「正常」「普通」の線引きによって生まれます。そして、心身のさまざまな違いに対して、その社会がどう適応するかという度合いにもよります。たとえば、日本において「車イスを使う人=障害者」となるのは、車イスではあらゆることがしづらい物理的環境だからです。日本において「読字障害だから、勉強ができない」と言われるのは、従来の画一的な学習方法をすべての子どもに使わせようとしているからです(このInstagram〔wheelie_good_life〕は、米国の障害者法のもと、車イス使用にどれほど障壁がないかを楽しく紹介している方のもの)。
「虐待されているから」「お金がないから」「障害があるから」といった言い方は、課題の原因を当事者にのみ帰(き)しており、それ自体、当事者の状態(生物面、心理面)をより悪くするリスクがあります。当事者のみの責任にできれば、周囲は「自分も解決に取り組むべき」と考える必要がなくなるため(※)、このような見方は根強いのですが、問題の解決にとっては足かせとなります。安全の場合でも「この子が~だったから」「保育者が~だったから」で終わらせていたのでは、環境やモノの改善にはつながらず、同じ事故が続くでしょう。
2)問題:その社会が「ダメ」「欠如」とみなす部分にのみ焦点が当たる
未就学児にはできなくて当然な、「みんなと仲良く」「協力して」「みんなで揃って」や、「静かに座って先生の話を聞く」「先生の指示通りにする(…どころか、言われる前に「空気を読んで」行動する)」が、この文化では「子どもにもできて当然」とみなされてきました(『子ども育ての本』の「心の理論」の発達に関する項)。
では、他の、いわゆる「先進国」で、こうした行動を未就学児に「できて当然」と考える文化はあるでしょうか? ありません。では、他の文化で未就学児にこうした行動をさせない結果として、おとなになった時の行動に支障が出るでしょうか? 出ません。逆に、未就学児期に「自分がしたいこと」をし続けるからこそ、「動機のスキル」(『子ども育ての本』、141ページ)が育ち、その後、「学びたい(から静かに聞く)」「楽しい(から揃ってダンスをする)」「このプロジェクトを進めたい(から協力する)」動機を持ち続けられるのです。未就学児期、おとなに動かされる経験、おとなの期待通りに動く経験ばかりをしたのでは動機のスキルは育たず、動機を持ち続けることもできないでしょう。
ところが、この文化ではあいかわらず、最初に挙げたような行動が良しとされているために、未就学児施設では、こうした行動をしない子ども、できない子どもが往々にして「課題のある子ども」と呼ばれがちです。一方、静かにしていて聞き分けも良く、おとなの言う通りにしている子どもは「課題がある」とは言われません。
10年、20年以上前に比べると、子どものケンカやケガが保護者の苦情にもつながりやすい今、このタイプの子どもが保育現場の焦点になり、場合によっては、本来不必要な「発達課題」「行動課題」というラベルが子どもに貼られることすらあるでしょう。適切な支援は誰にとってもプラスになりますが、支援がないまま、「発達課題、行動課題がある」というラベルだけが付いたのでは、そのラベルは現実のものになりかねません(もちろん、本人の自尊感情にも悪影響)。「この子は問題がある」というおとなの意識は、そのおとなの言動として子どもとのかかわり行動にもマイナスに影響し、問題をさらに悪化させるのです(ゴーレム効果、ピグマリオン効果と呼ばれる。『保育者のための心の仕組みを知る本』、41ページ)。
3)問題:他の子どもは「課題がない」とみなされる
静かにしていて聞き分けも良く、おとなの言う通りにしている子どもは「課題がある」とは言われない…わけですが、この子どもたちには何も課題がないのでしょうか? 未就学児施設で言えば、いまや「課題がある」とみなされる子どもたちのケアで職員は手いっぱいという場合が多く、「良い子」たちはおとながかかわることも少なくなりがちです。
子どもたちがどれほど静かに、仲良く、一緒に活動しているように見えても、おとなの適切かつ十分なかかわりがなければ、子どもは育ちません。その場では問題がなく、良いように見えても、この子どもたちは育ちに必要なものを十分には得ていないわけですから、十分に育つことはできないでしょう。ただ、「この子は十分に育てられなかった」「もっと、~なふうに育つはずだった」と5年後、10年後、20年後に判断することはできませんし、まして、原因を「未就学児施設全体の問題(=国の施策の失敗)だ」と言うこともできません。周囲の期待よりも低い状態に育ったなら、「この子はこの程度だった」と本人の責任になるか、「親が~だったから」と言われるか、でしょう(「失われたアインシュタイン現象」につながる。『子ども育ての本』、153ページ)。
「課題がある」とみなされた子どもは、欠如モデルの見方ゆえに「この子ども/保護者に問題があった」と責を負わされ、一方で、「良い子」とみなされた子どもも育つ機会を奪われることになっている、それが現状です。
4)代替:強みモデル、長所モデル
欠如モデルに代わる考え方の枠組みが、「強みモデル strength model」「長所モデル asset model」と呼ばれるものです(※※)。子ども一人ひとり、おとな一人ひとりにはそれぞれ強みと弱み(=個人の特性)があり、誰一人として「普通」「平均」の人はいないという前提で、強み(長所=資産 asset)を育て、積み上げていこうという考え方です。まず、「欠けている部分に目を向ける文化」自体を、「一人の子ども/おとなの強みに目を向ける文化」に変え、強み/長所/特性をそれぞれに活かし得る社会システム(物理的環境も人間環境も)に変え、学校、未就学児施設も同様に変えていくことです。
この見方を用いれば、静かに座っていられるかどうかで「良い子」という単純な判断をする枠組みはなくなります。友だちと一緒に遊べるかどうかも判断基準ではなくなります。この文化が期待する特定の行動ができないから「ダメ」、それができるから「良い」とする二分法自体が無用になります。そして、その子どもが興味を向けている対象、続けている活動をおとなが観察し、興味や活動を支えてさらに促していけば、子どもの強みを伸ばし、その後の知識やスキルにつなげていくことができます。何かに自ら興味を向ける習慣、何かを自分で選んで続ける習慣も身についていくでしょう。
欠如モデルは、おとな(個人)にとっても社会にとってもマイナスです。この文化で何が「ダメ」とみなされるかをわかっているおとなは、自分で気づいている「ダメ」な部分、または誰かに「ダメ」と言われた側面を埋めよう、隠そうとし、無駄なエネルギーを割くでしょう。そのエネルギーは自分の強み/長所/特性を伸ばすために活かしたほうが、その人にとっても、社会にとっても良い。言うまでもありません。
では、何が個人の強み/長所/特性なのか? これは別項で書いていきます。ただし、まず未就学児施設の場合、現状の職員配置、職員のスキルでは、「強みモデル」「長所モデル」を現実にすることは困難です。一方、保護者が自分の子どもの強み/長所/特性を育てていくには、保護者にも余裕がなさすぎます。「生物-心理-社会(文化)モデル」に基づいて、社会システム(未就学児施設、働き方)を変えることが第一歩である所以(ゆえん)です。
※個人に責任を負わせようとする傾向は人間の認知バイアス(ものの見方の歪み)のひとつであり、「被害者を責める victim blaming」等と呼ばれる。典型的なのは性暴力が起きた時、「被害者に(も)非があった」と言うこと。
※※保護者、子どもが「能力や知性は生まれつき固定されている」と考える(fixed mindset、固定の心の枠組み)か、あるいは「人間は成長し、能力や知性は伸びる」と考える(growth mindset、成長の心の枠組み)かで、子どもの学習行動や成果に違いが表れることはわかっている(『3000万語の格差』、89ページ)。
参照論文(上リンク)のタイトル
- The need for a new medical model: a challenge for biomedicine. 1977.
- The Biosocial Approach to Human Development, Behavior, and Health Across the Life Course. 2019.(全文)
- Challenging the Deficit Model and the Pathologizing of Children: Envisioning Alternative Models. 2014.(PDFのリンクあり)
(2024/12/28)