幼児期健忘研究の現在
(どんな人たちが研究しているかを紹介するため、研究者名は顔写真のあるページにリンク)。人間は3歳ぐらいまでのできごとを思い出すことができません(幼児期健忘。『子ども育ての本』174ページ)。1895年に初めて報告されたこの現象については、「記憶できないのか」「思い出すことができないのか」という議論が続いてきましたが、さまざまな研究から、まず「3歳未満も記憶をしている」とわかってきました。そして、2025年3月、Science誌に載った論文は初めて、覚醒状態の子どもの脳をfMRIで観察し、3歳未満でも海馬(感情、できごとの記憶などを司る脳の部位)が働いて記憶をしている事実を明らかにしました(イェール大学心理学部〔米国〕、Nick Turk-Browne博士のグループ)。この研究までは、3歳未満の子どもが記憶作業をしている時の海馬の動きを観察した実験はなかったようです。
実験では、生後4.2か月~24.9か月児26人を12か月までのグループと12か月以上のグループに分け、fMRIに座った子どもに2秒ずつ写真を見せていきました。その後、「すでに見せた写真」と「見せていない写真」の組み合わせを見せ、子どもの凝視時間を測りました。すでに見た写真を子どもが有意に長い時間みつめた場合、それは「見たことがある=記憶に残っている」という意味になります(確立された実証方法)。
すると、月齢の高い子どもほど、最初に写真を見ている時の海馬の動きが活発でした。また、月齢の高い子どもでのみ、眼窩前頭皮質の動きが見られたのです。眼窩前頭皮質は、記憶や感情に基づく認知や意思決定をする重要な部位です。
この研究から、脳の機能の上でも3歳以下が記憶をしていることがわかりました。論文を読んだコロンビア大学心理学部のLila Davachi博士(認知脳科学)は、「おとなの場合、自分の経験と特につながりが強いできごとに注意を向け、記憶に取り込む傾向があるとわかっている。今回の研究結果は、乳幼児期の海馬の記憶プロセスが、この子どもたちにとって価値のない情報を取り込んでいる事実を示した点で驚きだ」(CNNの記事)と言っています。つまり、0~2歳の子どもたちは、目にした刺激を取捨選択せず、そのまま記憶に取り込んでいるということです。特に3歳未満は、あらゆる刺激を取り込んで脳の中に「つながり」を作っていく時期ですから、この点は理解できます。重要なのは、海馬の働きがおとなとは違うところです。
子どもは生まれた瞬間から、身のまわりのすべての五感刺激をもとに、おとなとは比べものにならないほど大量の学習(=記憶と記憶の強化)をし続けます。でも、刺激の間にあるつながり(文脈や因果関係)は、まだまだ理解する途上です。幼児期健忘とは、「いつ、どこで、誰が、何を=エピソード」を思い出すことができない、いわゆる「エピソード記憶」ができないにすぎません。
同じScience誌、2024年3月の記事によれば、ラットでも生後4日程度、幼児期健忘が見られるそうです(※)。特定の環境条件で電気ショックを受けた幼体のラットは、その時には電気ショックが起こる条件を避けるものの、1~2日すると忘れます。でも、成体のラットは環境条件と電気ショックの記憶を保持し続けます。ラットでも観察されることから、幼児期健忘の原因は「できごとを記憶し、思い出すための言葉を子どもが持たないから」ではないと考えられています。
一方、幼体期の電気ショック経験を「忘れている」ラットを、電気ショックが起こる条件と似た環境に置くと、環境条件と電気ショックのつながりを「思い出し」、その環境を避ける行動をするという実験結果もあります。幼児期健忘は「忘れている」のではなく、「意識的には思い出せない」だけのようです。さらに、幼体期に実験で経験した作業に関連することは、経験していない作業に比べて効率的にでき、「覚えていない」状態でも幼体期の記憶は後の経験に影響を与えていました。
同様の実験は、人間の乳児でも行われています。たとえば、生後2か月児が「ベビーベッドの上に吊られたモビールを足で蹴ると動く」と覚えても、数日後には忘れてしまいます。ところが、この子どもたちが3か月、6か月になった時点で実験者がヒント(例:頭上のモビールを揺らす)を示すと、「足で蹴って動かす」という行動をすぐに思い出しました。この時期、ニューロンのつながりが生じたり切れたり変わったりすることで、情報は次々「上書き」されていくものの、その前にあったつながりもなにかしら残っている可能性があると考えられています。
「忘れているわけではない」とはわかってきたものの、では、いつごろまでの記憶をいつごろから思い出せなくなるのか、思い出しにくくなるのかは、まだはっきりしません。マックス・プランク研究所(ドイツ)のSarah Power博士の研究グループは、生後18~24か月の子ども360人を対象に、成長に伴って記憶がどのように変化していくかを調べる世界初の前向き研究(※※)を続けていると、2024年のScienceの記事は紹介しています。今のところ、生後20か月ぐらいの子どもたちは、特定の実験室のどこに特定のおもちゃがあったかを6か月後に覚えているそうです(これ以下の子どもたちは1か月程度で忘れる)。
幼児期健忘が起こる理由はわかっていませんが、人間以外の動物でも見られることから、進化上の戦略だろうとは想定されています。ひとつの仮説は、海馬が育つ時間を保証すること。もうひとつは、特定の文脈や因果関係を(意識的な記憶に)残さないことで、一般的な情報の記憶、学習を優先させること。テンプル大学〔米国〕心理学部のNora Newcombe博士が言う通り、「(この時期は)隣の家のカーティスというネコについて知るよりも、ネコがどういうものなのかを学ぶほうがずっと大事」だからです。
実際、一般的な情報(ネコとはどういう生き物か)を理解して、特定のネコの存在もわかっている4~8歳の子どもでも、まだ、たとえば似通った画像(例:消しゴムだけの画像と、鉛筆と消しゴムが写っている画像)を区別することは容易ではなく、記憶を整理するスキルは育ちきっていないそうです(メリーランド大学〔米国〕のTracy Riggins博士)。情報の細かな違いを記憶の中で整理するスキルの発達は、海馬の特定の部位が小さくなり、海馬の働きが効率的になっていく過程と並行しています。
一方で、幼児期健忘が起こらなかった場合のマイナスの影響はわかっています。たとえば、生まれたばかりのラットを母ラットから離してストレス・ホルモンに曝露させ、海馬の発達を人工的に早めると幼児期健忘は起こらず、その後ずっと、そのラットは不安の強い状態が続くそうです(2011年。ニューサウスウェールズ大学シドニー校〔オーストラリア〕のRick Richardson博士)。また、妊娠しているラットをウイルス感染に似たストレスに曝露させると、オスの子ラットに行動異常が生じ、幼児期健忘も起きず、海馬の中のニューロンのつながりは成体のラットの海馬と同程度に密だという結果でした(2023年)。
後者の研究グループ(トリニティ・カレッジ・ダブリン〔アイルランド〕のTomas Ryan博士)は、ニューロン(神経細胞)の刈り込み(プルーニング)をする役割を果たすマイクログリアの働きをラットの脳で止めると、幼児期健忘が起きず、この時期の記憶が保持されるという研究結果も出しています。プルーニングは、ニューロンのつながりを整理して、使わないつながりや無駄なつながりを切り、効率化を図る、脳にとってはきわめて重要な過程です(人間では2歳頃から加速。『子ども育ての本』149ページ)。脳があらゆる刺激を吸収してニューロンのつながりを作り続ける時期から、必要で重要なつながりを残して整理する時期の転換点と、幼児期健忘の時期が関係しているのではないかと考えられています。
ラットの母体や幼体がストレスに曝されると、海馬などの脳の機能が影響を受けるという事実は、人間でも3歳未満の時期に被った各種のストレス(貧困、劣悪な生活環境、トラウマ、ネグレクトなど)が、記憶には残らないにもかかわらず、後にさまざまな悪影響をもたらす事実と重なります。
ラット等を用いて細胞/分子レベルの記憶メカニズムの研究を続けているニューヨーク大学神経センターのCristina M. Alberini博士他がまとめたレビュー論文(2017年)は、幼児期健忘の時期を、まだきわめて柔軟で可塑性の高い脳が「学ぶ方法を学び、記憶する方法を学ぶ重要な期間」と位置づけています。冒頭に示したイェール大学の研究は、0~2歳の子どもでも海馬が働いて記憶をしている、でも、その記憶はおとなの記憶とは違うらしいことを示唆しており、脳が学習方法や記憶方法自体を学んでいるようにも見えます。
この時期に各種のストレスが脳の機能を障害したり、あるいは学習や記憶の方法を学んでいくために必要となる十分な刺激が外界から与えられなかったりすれば、脳は必要な働きを学ぶことができず、結果的にその後の脳発達、成長発達全体にネガティブな影響を及ぼすことになるのかもしれません。幼児期健忘自体は残念な現象であっても、きわめて重要な脳発達の副産物、あるいは副産物どころか、(まだわかってはいないものの)進化上、これ自体が重要な現象である可能性があるようです。
※げっ歯類の中でも、モルモットやデグーは生まれた時点ですでに成体と同じ状態で、幼児期健忘もない。
※※前向き研究は、研究の対象となる集団を設定して追跡し、理解しようとしている結果が起こる経過をデータとして集めていく手法。後ろ向き研究とは、その結果が起きた/起きなかった集団のデータを過去にさかのぼって集め、分析する手法。後ろ向き研究ではたいてい、集団にもデータにもバイアス(歪み)があるため、前向き研究のほうが質的には優れている。たとえば、幼児期健忘の研究は従来、ある程度の年齢の子どもに記憶をさかのぼって報告させてきた(=後ろ向き研究)が、それが本人の記憶なのか、家族の話から後付けされた記憶なのかは明確にならない。優れた前向き研究の一例として、虐待の世代間連鎖の研究がある(『子ども育ての本』163ページ)。
参照論文と記事(上リンク)のタイトル。リンクがない論文はすべて、2024年のScienceの記事から。
- Hippocampal encoding of memories in human infants. 2025.
- 米国CNNの記事. You can’t remember being a baby for a reason, new study finds. 2025.
- Science誌の記事. The fading memories of youth: The mystery of “infantile amnesia” suggests memory works differently in the developing brain. 2024.
- Maternal separation results in early emergence of adult-like fear and extinction learning in infant rats. 2011.
- Immune activation state modulates infant engram expression across development. 2023.
- Infantile Amnesia: A Critical Period of Learning to Learn and Remember. 2017.
(2025/4/11)